昨年、2012年のゴールデンウィークの数日、一人で東北の太平洋岸を見て回った。
ニュースになるような悪天候の中で見た被災地は、震災から一年以上が過ぎていたにもかかわらず、想像以上に痛んでいた。
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行こうと思ったきっかけと目的地は岩手県山田村。
現在、富山市など県内各市町村が災害廃棄物の受入を検討・試験焼却等をして知られる村だ。
僕は(恐らく多くの皆さんと同様に)、受入の話があるまで山田村の位置も名前も知らなかった。
その名を知って、これは見に行かなきゃいけないなあと考え始めた。
近くにある大槌町には一度だけ行ったことがあった。
富山からは遠くて、道中も険しいところだった。
山道をようやく抜けて谷が開けたら美しい海とちいさなまちが広がっていたのを覚えている。
見て回って戻ってきてから、「釜石の奇跡」で有名になった片田教授の講演を拝聴した。
(この紹介は本人はいやがっておられたが。)
また、どのように役立つかは未知数だが、防災士資格を取得した。
講習と簡単な試験と、救急救命講習を受けた。
まずはネットワークづくりに活かせたらとは思っている。NPOにも登録しないとな。
あとは少し、防災関係の仕事もさせてもらっている。
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すぐにでも記事にしようとしたけれど、どうにも消化しきれなくて書けなかった。
どうしても目に付いたところを記録したから、ただただ酷いところを写したんじゃ無いかと思われるかもしれない。どうやったら正確に伝えられるのか。日が経てば経つ程写真の中の東北は変わらないから復興している東北の姿と違うことにならないかと。なんでこんな心配するのかもわからない位、よくわからなくなっていた。
或いは、僕はあの日も今でも災害廃棄物はどんどん受入れたらいいと思っているけれど、意見の違う人がいるのもわかっていて、どうしたものかと悩んでいた。ずっと心に残っていた。
ただ、被災地の姿を目にすることが少なくなってきたことに気が付いた。
僕が見たある日の東北として、失礼の無いよう、きちんと記録しておこうと考えるようになった。
一昨日、申請した防災士の資格証が届いたのがいい機会だと思った。ここで踏ん切りを付けよう。
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・5月2日(水)21:00 富山出発
仕事を早めに切り上げてレンタカーを借り、ドカンと荷物を放り込んで出発。
道中は順調で特に渋滞も無く、磐梯山SAに2時頃到達。仮眠を取る。
風雨がどんどん強くなっており車内が意外と寒かった。
丁度関越道の高速バス事故があった頃で運転中いつも以上に休憩計画を考えながら走った。
学生時代はよく夜中にひた走って建築見に行ったもんだなと懐かしい気持ちになって、でもあの頃(も今もだが)は金が無いから高速道路なんて使えなかったけれど。
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・5月3日(木)5:30 磐梯山SA出発
渋滞の懸念があり早めに出発するも、やっぱり渋滞に捕まった。天気は悪くなる一方。
朝飯は牛タン食べようと思い立ち、朝からやってる店を検索して仙台駅へ向かう。8時半頃仙台駅構内着。
牛タン屋で朝食。
朝っぱらから牛タン食う阿呆はいないだろうと思ったら開店待ちの列が出来ていた。女性のお一人様とかもちらほら。
腹ごしらえをして車に戻るも酷い暴風雨でだれも外を歩いていない。
今回の一人旅では目にとまる全てを撮ろうと思っていたのに、防滴じゃないK-rが壊れること間違いなしの天候で大分諦めた。
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いよいよ沿岸部へ進路を取る。
車中泊は天候と体力的に遠慮したかったが宿が全て満室で、なんとか岩手の水沢市で予約した。
夜には着けばいいなと思いつつ、リアス式海岸を北上していく。
ここからは写真がほとんど。
通ったあたりのgoogle map
より大きな地図で GW を表示
富山駅(とみやまえき) というのを見て、へー富山といっしょだと、軽い気持ちで曲がる。
ここまではまだ、所謂被災地らしい所は無かった。
線路はゆがみ、ホームは崩れていた。周囲の民家はそれほどではなかったが、地面はぐらぐらだった。
実際は何かがあって、片付けたのだろうと思う。
地図によればそろそろ海が近いはず。
この鯉のぼりは、現地で見るとすごく力強くて南なんだろうと思った。
近寄って行ったら言葉を失った。
この大曲浜の周辺は2012年5月の時点ではこんな状態だった。
東北は更地か、集められた廃棄物の山ばかりだと思っていた自分の想像力の無さに愕然としていた。
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出来るだけ海岸線をすすむと廃棄物集積場があった。
かなり広大なスペースに、仕分けしながら置いている様子が伺えた。
がれき、というとコンクリートのイメージになる。当然違う。
国も呼び方を統一して、災害廃棄物と言っている。マスメディアの阿呆ががれきがれき言うから、まったく話が噛み合ない。
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女川。
まちの外れと言うか、恐らく復興の妨げにならない谷間に災害廃棄物置き場があった。
ただただ広かった。こんなに広いのに山積みだった。
冠水した道を進んでも進んでも廃棄物だった。
これだけ集めるのに、どれだけの労力と精神を費やしたのか、何を考えても空虚だった。
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メッセージに突かれたけど、俺が感じて良いものか分からなかった。
この道中は昼間の写真ばかりだったから、いかに悪天候だったか分かると思う。
橋が仮復旧していた。水位が高いのは暴風雨のせいと、恐らく地盤沈下したから。
海岸線は、ある程度道が繋がっていたように思う。
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南三陸町。
町らしい町が被災している様がよくわかった。
少し大きな建物と、基礎だけ残った宅地。
かつての町の形が少し残っていた。
まるで海のように冠水していた。
更地にしようにもこれではどうしようもない。地盤沈下が大きな足かせになっていた。
材木だって、切ってすぐは使えない。
材木置き場も多かった。当然切られた山も。治山治水のため、保全していく必要がある。
そろそろ1日目の夜が来そうで、体力的にもきつい頃。
宿のある水沢へ、つまり内陸へ向かい始める。
タンカーが道路脇にあった。
二日目、三日目はまた後日。